■Paradigm Shift -新しい価値観-
今月初めに刷新された新札は皆さんのところに巡ってきましたでしょうか?
私の方には、3つとも回り回ってやっていきました。
その1万円の顔に選ばれた渋沢栄一ですが、100年前に刊行された『論語と算盤』の著者
として有名ですが、「日本資本主義の父」「実業界の父」「金融の父」とも呼ばれ、生
涯に約480もの企業の設立・運営に携わったと言われています。さらには、企業経営だけ
でなく、約600の社会事業にも携わったとも言われています。
481社に携わったのを調査してみると「え、それも入れちゃうの?」「別々に分けて数え
ちゃうんだ」くらいに広義に取られているものが結構あるという結果がわかりました。
それは、役職者だったり、株主だったりはもちろんのこと、関わり方は「設立指導」
「設立に尽力」や「援助」「相談」「助言」「意見」などなど・・・・・・
普通に考えれば、ビジネスにおいて「ある企業に対して関わった」という場合、
・従業員として
・経営陣として
・大株主として
・今でいうコンサルタントや指南役のような形
でくらいが、意味としては妥当なはずですが、せめて「相談」「助言」「意見」くらいま
では分かるとしても、中には以下のようなものもあったりします。
豊国銀行 1907~28 招宴出席
神田銀行 1918~29 債権回収者来訪
第十銀行 1897~41 社史題字揮毫(きごう)
浅野造船所 1916~36 開業式祝辞
東京海上火災保険 1918~44 弔辞受領
東洋護謨 1900~19 祝辞
三越呉服店 1904~28 祝辞、講演
これらも、東京商工会議所の481社の中には組み入れられています。
さらに、ある会社が続いていく中で、組織再編や合併などの事情から名前を変えている場合
もありますが、当然それも別に数えています。東京海上保険会社→東京海上保険→東京海上
火災保険などが代表的な例です。
さらに、渋沢栄一の企業への関わり方に関して、「渋沢栄一は約500の会社をつくった」「設
立に関わった」という情報もありますが、これも大きな勘違いであるようです。
なぜなら、設立時にはまったく関わっていないが、後になって関与したという会社がそれな
りの数あるからです。これにはいくつかのパターンがあります。
①さらなる社業の発展を期したい、跡継ぎの補佐をして欲しいなどの理由で、請われて。
→今の清水建設や第一三共が端的な例。
②社業がピンチになって、助力を求めてきたので、その立て直しのため。(これが結構多い)
→今の北陸銀行、秩父鉄道、今のニッピの元の一つとなった依田西村組、今の朝日生命保険
の元の一つとなった東洋生命保険など。
③事業の精算のため。
→宮城屋貯蓄銀行、第三十三国立銀行など。
もちろん、他にもこういった企業は存在しています。
また、渋沢栄一の企業への関わり方には、企業ごとに濃淡の差がかなりあったようです。彼の
活動の中心は、もちろん関わりの「濃い方」でした。
ですので、経営トップとして実際に『経営』していた会社はどれくらいあって、どんな活動を
していたのか」をさらに掘り下げてみたいと思います。
この点で参考になるのが、彼が69歳で基本的に実業から引退した時点でつくられた役職名一覧。
そして、「会長」という名称で関わっていたのが、
・東京貯蓄銀行(ただし、69歳時は引退せず)
・東京瓦斯(ガス)
・東京石川島造船所
・東京人造肥料
・帝国ホテル
・東京帽子
・日本煉瓦(れんが)製造
・磐城炭礦
・三重紡績
・帝国劇場
・日韓瓦斯
と、あります。もちろん、引退前を含めれば、王子製紙や東京製綱、京釜鉄道、長門無煙炭礦
(たんこう)、札幌麦酒、広島水力電気など、会長を務めた会社はもっとたくさんあります。
でもそれは『会長』であり、他に社長がいて、実質名誉職じゃないかと思ってしまいますが、
上記であげた会社では会長以外に、社長が存在した会社は「東京製綱」しかありません。つまり
彼が総責任者を務めた会社では基本的に、渋沢会長=(現代でいえば)渋沢社長と言えるのです。
結論から言うと、これらの会社には実務をしっかりと回せるナンバー2がおり、その業務執行を
行っていたわけですが、稀に渋沢栄一本人が、現場での業務執行も行ったこともあるようです。
それは、どのようなタイミングで、どんな手腕で行われたのか、次の機会に紐解いていきたいと
思いますが、そこには【論語と算盤】における真意が反映されていたようです。
また、合本主義という言葉も紐解いていくことで、これからのあるべき経営の姿が見えると感じ
ています。
出展:渋沢栄一記念財団WEBサイト
https://eiichi.shibusawa.or.jp/namechangecharts/#a4
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