本メルマガは、週1回程度を目安に以下の3つのパートから情報をお送りさせていただく内容となっております。

  • 「Paradigm Shift -新しい価値観-」
  • 「Unique Asset Management -独自の資産形成-」
  • 「Zoom In -BALI or Philippinesのリアルな生情報-」
 

■Paradigm Shift -新しい価値観-


日本の消費者金融の歴史を1950年代から2000年代にわたり振り返るこの企画ですが、今回は1970年、1980年をみていきたいと思います。

●1970年代
市場の急速な拡大で、過度な借入をして返済困難に陥ってしまう利用者が増えてきました。
そんな背景から、各事業者が互いに利用者の信用情報を共有して、貸倒に陥るリスクのある利用者を事前共有するシステムを構築するにいたります。

それが1972年、JCFA(日本消費者金融協会)を基盤として日本で初めての信用情報機関である(株)レンダースエクスチェンジが大阪に誕生しました。
現在の株式会社日本信用情報機構【英語表記 : Japan Credit Information Reference Center Corp.(略称 : JICC】の前身です。

また、1970年代といえば、オイルショックです。この騒ぎでお金を借りる人が急増したと言われています。当時の消費者金融の利用者は、主にサラリーマンが多かったことから、一般に「サラ金」と呼ばれるようになります。
この頃の金利は平均で年91.25%~102.2%と超高金利であり、暴力や脅迫による取り立ても大きな社会問題となっていました。

この時期、「消費者金融」という業態には、「サラ金」「街金」というようなブラックでネガティブなイメージが先行するようになってしまいました。
市場の拡大と共に多くの貸金業者が参入し、競争は激しくなっていく中で、一部の悪質な業者の「高金利・過剰貸付・過酷な取立て」という、いわゆる金融3Kが社会問題になった流れもあります。

各メディアにおいても、次第に消費者金融に批判的な報道が多くなり、特に1975年から開始された毎日新聞「サラ金をつく」キャンペーン、1977年頃から続出したマスコミ各社による「サラ金批判」により、消費者金融のイメージが大きく損なわれてしまったと言われています。

●1980年代
業界周辺のこうした社会問題は、国会でも取り上げられました。
1978年には「サラリーマン金融向けの融資」の適正化を求める大蔵省銀行局長通達が出されました。 この通達を受けた銀行や生命保険会社などの金融機関は、消費者金融業界への融資を抑制する措置をとりはじめます。 これによって、資金調達のパイプを切られた消費者金融業界では、多くの会社が経営危機に陥り、廃業する業者も目立つようになりました。

そして、1983年に「貸金業の規制等に関する法律」(貸金業規制法)と「改正出資法」が成立・施行されました。
この改正により、貸付上限金利は109.5%から73.0%まで下げられました。以降、経過措置により、87年には54.75%、91年には40.004%まで引き下げられていきます。

この83年の「貸金業二法」の施行をきっかけに、消費者金融業界は「冬の時代」を迎えることになります。
中小の貸金業者が次々と倒産・廃業に追い込まれ、貸金業登録数は83年には約23万社だったものが、翌年の84年には3万3千社にまで激減してしまったのです。

いわゆる「冬の時代」は、1984年から85年をピークに86年頃まで続きました。
消費者金融に対するこの時期の逆風は、業界全体には大きなダメージを与えましたが、特に大手各社にとっては、経営の合理化や強固な基盤を確立する機会となったのも事実です。

80年代は、日本の経済環境は比較的良好であり、新規顧客のニーズが十分にあったことも大きく、88年頃には消費者金融会社の業績は回復軌道に乗りはじめます。この時に行われた経営の合理化により、消費者金融業の1990年代以降の飛躍的な発展の礎となったと言われています。

 

■「Unique Asset Management -独自の資産形成-」

これまでは、手段の部分、つまり資産運用のノウハウに重点をおいて色々とお伝えしてきました。
すでにお気づきだと思いますが、実は重要なのは手段ではなく『目的』であり、この目的こそが、『人生=ライフプラン』となります。

資産運用とライフプランには密接な関係があり、ライフプランがあってはじめて資産運用(ファイナンシャルプラン)が導き出されるといっても過言ではありません。

そして、『ファイナンシャルプラン』とは『出口』があることです。

どんなタイミングで何の資金として活用するのか、そのためには何を選択するべきなのか、こういったことを『ファイナンシャルプラン』では考える必要があります。

日本でのライフプランは、ファイナンシャルプランナーやライフプランナーといわれる方が立てることが一般的です。少しずつ馴染みのある肩書きになってきていますよね。

その多くの方々は保険業を生業としており、お金を軸にプランニングしているケースが多いです。

一般的にライフプランは、通常の生活に加え、人生のライフサイクルの中で起こる大きな出費を考えて設計されています。

例えば、結婚などの新生活費用・子供の出産、教育費用・住宅や車の購入、返済資金・事故や急病からの死亡、入院費用・親の介護・自分たちの老後など。

この記事を読まれているあなたも、すでに設計されているかもしれませんね。

ファイナンシャルプランはどちらかというとお金の計画に終始しがちですが、ホントに必要なことはもっと別な部分にあると思います。次回はそちらについて触れてみたいと思います。

 

■「Zoom In -BALI or Philippinesのリアルな生情報-」

日本人とフィリピン人の最初の出会い

今回はフィリピンの歴史番外編ということで、日本人とフィリピン人の最初の出会い(現時点で判明しているもの)をやっていきたいと思います。

ウィキペディアで「日本とフィリピンの関係」https://bit.ly/2Kcogj3という項目を見ると、豊臣秀吉の時代の1591年にスペインのゴメス・ペレス・ダスマリニャス提督に日本に入貢(外国からの使者が朝廷にみつぎものを持ってくること。)を促す書簡を派遣したとあり、そこからスタートしています。

それでは西暦1591年以前に日本人とフィリピン人の交流はなかったのかといいますと、海外の記録を含めるとさらに以前のものが見つかりました。今後さらなる発見でもっと古くなる可能性もあります。

スペイン人の初代フィリピン提督となったミゲル・ロペス・デ・レガスピがフィリピンを占領する以前の1567年7月にスペイン国王フェリペ二世に送った報告に、日本人がルソン島で島人(フィリピン人)と毎年交易をしていることが記されているようです。(岩生成一 著『南洋日本人町の研究』)

ルソン及びビンドロと称する島々あり、同地には支那人及び日本人が年々交易に来る。彼等は生糸、羊毛、鐘、陶磁器、香料、錫、色木綿布及び他の小雑貨をもたらし、帰航には彼らは金と蝋を搬出す。これ等二島の住民はモロー人にして、支那人や日本人のもたらすものを購入して、これを群島中に売りまわる。
(岩生成一 著『南洋日本町の研究』p.216 昭和15年刊)

これはあくまでもレガスピが島人からの伝聞をもっての報告でありますが、当時の日本人、中国人がルソン島やミンドロ島方面と交易していたことが分かることは非常に興味深いです。

モロー人(モロ)とは何かといいますと、フィリピンのスールー諸島・パラワン島・ミンダナオ島に分布するムスリムの総称で、フィリピンに到達し初めて彼らと接触したスペイン人によりモロ人(ムーア人の意)と呼称されました。

一方1567年といえば、日本では尾張の守護代の家臣出身である織田信長が美濃の斎藤氏をくだし、稲葉山城に拠点を移し、稲葉山の城下の井ノ口を中国の岐山(きざん)と曲阜(きょくふ)にならって岐阜と改名した時期です。

戦国大名が群雄割拠した戦国時代は、南蛮から火縄銃(マッチロックライフル)を持った伴天連が渡来したみたいに外から外来のイメージがありますが、当時の日本人はかなりアクティブで、積極的に海外に進出していたことがわかります。

筆:西島