
本メルマガは、週1回程度を目安に以下の3つのパートから情報をお送りさせていただく内容となっております。
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■Paradigm Shift -新しい価値観-![]() 前回に続き、ビジネスでの考え方をサッカーに置き換えてお伝えするシリーズの後編ですが、今日は【コミュニケーション能力】について考察してみたいと思います。 ここで非常に素晴らしい成果を残した南アフリカワールドカップのサッカー日本代表の原動力が何だったのかをみてみたいと思います。 デンマーク戦後にできた選手の輪。それがその W 杯での日本の強さの象徴といえました。デンマーク戦でみせた戦い方はフィールドに立つ選手同士がコミュニケーションを取り合い、監督の指示を受けずにポジションを修正したわけです。 監督の指示による戦術の変更ではなく、出ている選手が自ら考えておこなったポジション変更に代表されたわけです。 そして、一口にコミュニケーションといってもいろんな要素を含んでいます。 対人関係能力とは、簡単にいうと「人と人との関係をうまくやっていく能力」「周りを動かす能力」といわれますが、さらにつぎの 3 つに分解できます。 ■自己理解・自己表出能力 ■他者理解・他者対応能力 ■集団形成能力 このような対人関係能力は不思議なことに学校でも会社でもきちんと学ぶ機会がほとんどないのが実情です。いじめが社会現象になっているのもこのヒューマンスキル(コミュニケーション能力)の未発達によるところが大きいのではないかと思います。 今は一旦休止中ですが、フットサル事業をおこなってきた株式会社 VIDA では、そんなコミュニケーション力の向上も意識しての指導にて、子供向けのスクールもおこなっていました。ヒューマンスキルの向上は、サッカーの技術向上以上に子供たちにとっても非常に重要なテーマであるといっても過言ではありません。 サッカーやフットサルに代表されるチームスポーツは、個人の力を集結させた組織力で成果(勝利)をあげるものです。フットボール同様ビジネスでも、プロジェクト型で動くようになっている昨今、チームの力で成果を上げることがとても重要になってきています。 ヒューマンスキルである対人関係能力を向上させながら、円滑なコミュニケーションで高い成果を求めていきたいとモノですね! |
■「Unique Asset Management -独自の資産形成-」今回は、日本人が大好きだといわれている『元本確保型ファンド』 のお話をします。 まず、元本確保型ファンドを購入できる、ある会社の説明をしますが、その会社はヘッジファンドの中でも代表格といえるほど、日本国内でも非常に有名な会社です。 ロンドンに拠点を置き、1987年に設立。現在では、運用資産総額200億米ドル(約1兆6000億円)以上を誇り、日本国内にある証券会社でも購入が可能です。 このファンドの投資形態はマネージド・フューチャーズと呼ばれ、株式指数、債券、金利、通貨、商品等の世界中の先物を利用し、相場の動向に関わらず絶対に収益を目指す投資形態になっています。 約20年のファンド成績は、現在評価価格で10倍超え(年率換算で10%/年)以上の成績を残しています。 そして、気になる元本保証の仕組みは、基本的に運用資産のうち8割程度を、金利と格付けの高い安全な国の債券などに分けて買うかたちです。 しかも、国債などは満期時に元本が10割程度になって償還されるので、なんと、この部分で投資金額の全額は確保されるわけです。 残りの2~3割程度を、オフショアの金融商品に投資して運用しますが、超ハイリターンを狙うので、基本的にハイリスク商品に投資します。 ヘッジファンドやコモディティの元本確保ファンドの場合、2~3割にレバレッジ(借り入れ)をかけて運用する場合があります。 そして、投資可能通貨は、米ドル・豪ドル・ユーロ・スイスフラン・日本円建てがありますが、投資効率を重視した場合、米ドルと豪ドル以外はあまりオススメできません。 ちなみに最低投資金額は50,000米ドル相当です。 他にも、元本保証型だけではなく、いつでも買えるタイプもあり、こちらは基本的に満期など終了期日がなく、好きなときに売買できます。 日本でも人気の元本確保型については、募集があったときのみ投資可能な商品なので、購入できるタイミングはかなり限られます。 |
■「Zoom In -BALI or Philippinesのリアルな生情報-」フィリピンの歴史最終回、第二次世界大戦以降のフィリピンに行きたいと思います。 アメリカによって植民地化されたフィリピンには独自の軍隊がありませんでした。 アメリカによって約束されていた独立の予定は1946年でした。とは言ったものの、教育制度があるわけでもなく、フィリピン現地では各地域によって話す言語が違っており、およそ170種類の言語が使われていました。各自借用語があるものの意思の疎通ができない状態でした。現在はフィリピノ語(タガログ語)と英語を公用語とし、それに地元の言葉の3つの言葉をつかえます。 日本は1943年の10月ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国の独立認めたものの当時のアジア地域においてはまともな高等教育制度もなく、国民国家が存在しておらず国民意識を持った民衆が存在しなかったため、先に述べた言語の問題もあり順調にはいきませんでした。 ラウレル政権はアメリカ支配時の地主支配の継続を認めたためフィリピン民衆の幅広い支持が得られませんでした。 1944年10月にアメリカ軍がレイテ島に上陸し、1945年3月にはマニラが制圧され、9月3日に日本軍は降伏しました。 戦後、アジア各地で共産党系の勢力が一斉蜂起しましたが、フィリピンでも例外ではなく共産党勢力との内戦が勃発しました。 フィリピンの問題は大土地所有制にあるとみた歴代大統領は、幾度か農地改革を推進しましたが、法の抜け道があったため不徹底になり、しっかりとした制度が根付くことはなく、これがさまざま要素が現在にまで尾を引いています。 1965年に大統領に就任したフェルディナンド・マルコスは強権政治でフィリピンを統治しました。一度は壊滅したもののまた復活した共産党と南部のムスリムの反乱があったため1972年フィリピン全土に戒厳令を敷き、議会を閉鎖しました。 マルコス大統領失脚後、民主化が実現したフィリピンでは政治的な腐敗、不正選挙、混乱がたびたび起きたりするものの、現在は東南アジア諸国連合の重要な一員となっています。 |