本メルマガは、週1回程度を目安に以下の3つのパートから情報をお送りさせていただく内容となっております。

  • 「Paradigm Shift -新しい価値観-」
  • 「Unique Asset Management -独自の資産形成-」
  • 「Zoom In -BALI or Philippinesのリアルな生情報-」
 

■Paradigm Shift -新しい価値観-


4月4日からBali島に来ております。今回は29日の帰国までずっと滞在します。
気候的には雨季から乾季に移行し、青い海に白い雲のコントラストが映える爽やかなシーズンになりつつあります。

主な目的としては、LUXU+BALIというバリ島をベースにしたグローバルスタンスを考える方向けの不動産×金融×ライフスタイ
ルの会員サービスが動きだし、そちらのパートナーやクライアントとともにバリを深掘りするための滞在となっています。
https://luxubali2.net

ハワイでは1億円アッパーの物件などがざらにあるわけですが、資産的な位置づけとしては、コンサバという表現が似合うほど、
保守的であり、変動幅の少ない資産という目的では優秀ではあるもののなかなか利回わらないという現実もあります。
そのハワイから資産を移す先としても密かに注目を浴びているバリ島の不動産です。

ポートフォリオ的には、街中にあるレンタルVILLAによるインカム、今後開発が進んでいく郊外への土地仕込みによるキャピタル
の両方狙える上、出稼ぎのローカルスタッフが暮らすアパートメント運用などの組み合わせが可能なうえ、土地仕入れからの
VILLAやアパート建設の建売事業での収益も見込めます。
メンバーにしかその上質な情報は共有されない形となっていますが、せいぜい我々がマネジメントできる会員数は200名程度だと
思っていますので、ピンときた方は是非お問合せ下さい。

小冊子にも記載していますが、
・自分がどこにいても収益化を図ることができる資産運用
・マルチカレンシーという複数通貨への分散
・クロスボーダーという国にとらわれない体制

根底には為替の上げ下げから解放された、複線化された収益構造を持つという考え方の実践があり、万が一日本に何かあった時に
避難でき、暮らすことができる場所の確保、そしてすぐに収益基盤を作る準備をしているわけですね。

そんなバリ島ですが、最近インド系の方々の来島者を多くみるようになってきました。
元々、バリヒンドュー教の本山でもあるようなインドが本領発揮といったところでしょうか。いよいよ中国をおさえて、インドが
台頭してきているのを肌で感じています。
ちょっと前までは、先輩の外国人向けアパートメントのうち、9割がロシア人という事態にもなっており、ロシア・ウクライナから
の流入が顕著でした。ただ、悪いことする人も多く、政府が規制をかけることになり、滞在数は減少しています。
そして、年々、日本人来島者が減ってきているのも痛感しています。そのうち、直行便がなくなるではないかと密かに心配してい
ます。まぁ私の場合はPhilippinesやJakartaでの仕事もしてますので、そこを経由してこれば問題ないわけですけどね。

バリ島は約5,561平方kmの面積ですが、約5,676平方kmの愛媛県と同サイズです。
そんな島国で、こんな世界の潮流を感じれるのもバリ島の面白いところだと思います。

 

■「Unique Asset Management -独自の資産形成-」


今回は残り3区画となった掘り出し物の物件のご紹介。

永久使用権
土地100㎡(約30坪)
建物65㎡
2ベットルーム
共用プール

ロケーションとして、デンパサール空港から車で約3時間半の場所にあるオーシャンフロントエリアです。
すぐ先のGilimanuk(ギリマヌ)港からフェリーが出ており、隣のジャワ島まで30分で行くことができます。ヌガラはバリ島西部の玄
関口として物資を運ぶトラックの通行が盛んな街です。
海沿いのPerancak(プランチャ)村は、運河と海に挟まれた特殊な地形をしており、海岸ぎりぎりまで土地を使用して建物を建てても
良いとされる特別地区です。海沿いには贅沢な広さを誇る別荘が点在しており目を惹きます。
数年以内にヌガラがある西部ジュンブラナ県と南部のタバナン県を結ぶ高速道路建設もまさに動いており、今は3時間半ぐらいかかっ
ているものが、1時間から1時間半圏内になるというものです。ヌガラエリアの価値があがることは明白です。

この高速道路の話はバリ島では以前からよく浮上していたわけですが、個人的に決定的に確信を深めた事象があります。
2022年8月にインドネシアでも有数のconstruction company であるtotalindo社を訪問しました。

先方は数名の役員含む6名が参加、こちらは通訳含む6名でのミーティングとなりました。結論としては、これからの事業提携・および
投資パートナーを探しており、そちらをサポートしていく流れとなりました。

同社は、1996年の設立から、工業系、hotel系、商業ビル系、橋梁、社屋・公共、アパートメント、病院、ハウジングなど全般的に行っ
ており、Baliにもhotelがあるムリアグループからの依頼でのconstructionや、大手デベからの発注、政府系からの発注などのconstruction、
また、アブダビでのconstructionなども請け負い、発注元も多岐に渡ります。
totalindo社がこの半年で政府系プロジェクトで抱えているプロジェクト一覧の一部を見せて頂きましたが、有数のプロジェクトを実施
する流れとなっていました。

そして、私がBaliでの仕事がメインだと知ると、実はBaliでは、このconstructionプロジェクトも受託していると教えてくれました。
それがまさに、この高速道路の建設プロジェクトだったわけです。
政府が土地提供で建設を民間が行う政府と民間のJVのプロジェクトとなっている詳細まで教えてもらい、目標の施工期間は2022年末スタ
ート、2024年終了の予定で動いているとのことでした。

こんなことを聞いて、私はますますバリ島西部の価値が高まることを確信したわけです。
さらには、上記の物件は海と川に挟まれた半島の川側にあるわけですが、その対岸には大きなヨットハーバーができる計画も上がってお
り、フィシビリティスタディも終えて実現可能性の高いプロジェクトとなっているようです。

これが、永久使用権の土地と、64㎡の2ベッドルームのVILLAで1300万円。
LUXU+BALIのメンバーであれば、もっと割安で購入可能です。
この価値をどうみるか。やはり投資にはビジネス同様にマーケティング的視点が重要だと思います。
価値を見抜く目を養っていきたいものですね!

 

■「Zoom In -BALI or Philippinesのリアルな生情報-」


新・フィリピンと日本の歴史(7)

サン・フェリペ号事件とフィリピンの日本人

一五九六年にメキシコのアカプルコ港に向かったサン・フェリペ号が、東シナ海で台風に遭遇して甚大な被害を受け
てしまう。船員たちはメインマストを斬り倒し、四百個の積荷を放棄して、なんとか土佐の浦戸沖にたどりついたの
だが、秀吉は増田長盛に命じて船体と船荷を没収させました。

通説では、増田長盛がサン・フェリペ号の船長に対し「どうしてスペインはそんなに多くの国々を征服し得たか」と
尋ねたところ「まず征服せんと欲する国に宗教伝道者を送り、国民がキリスト教に傾いた頃を見計らって今度は軍隊
を送り、新しいキリスト教徒をしてこれに援助させるから容易なのだ」と答え、驚いた増田長盛がその旨を秀吉に報
告したところ、秀吉はそれを聞いて激怒し、バプチスタらフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に
処するよう命じ、一五九七年に二十六人が長崎で磔の刑に処されたという話になっています。しかしながら、船長の
失言の話は日本側の記録には存在せずイエズス会の記録にしか存在しないようです。

松田毅一氏の『秀吉の南蛮外交』に、秀吉が土佐に派遣した増田長盛に送った書状が引用されている。それには「彼
等スペイン人は海賊であり、ペルー、ノビスパニア(メキシコ)、フィリピン諸島で行ったように、当(日本)国を奪う
ために測量を行なう目的をもってきたのである。このことは、このころ、都にいた三名のポルトガル人ほか数名が太
閤に知らせたことである」という主旨のことが書かれていたようです。(松田毅一『秀吉の南蛮外交』新人物往来社p.
227)

「三名のポルトガル人ほか数名」が秀吉に讒言したということになるのだが、松田毅一氏によると、秀吉にこの情報
を伝えたのはイエズス会の宣教師であった可能性が高いとのことです。

そもそも、日本における布教は当初からイエズス会が行うことが取り決められており、ローマ法王は一五八五年にフ
ランシスコ会に対し日本渡航禁止令も出していた。また一五八七年には秀吉の伴天連追放令が出たためにイエズス会
はおおっぴらな布教活動を自粛している最中であった。そんな状況下にフランシスコ会がフィリピンから宣教師を送
り込み日本で布教活動を開始したのだが、イエズス会がフランシスコ会の布教活動を不愉快に思っていたことはほぼ
確実ではないかと思われます。そして彼らはフランシスコ会を日本から排除するために工作をかけたのではと考えら
れます。
実際のところ、長崎で処刑された二十六人のうち二十人が日本人で、残りの六人はいずれもフィリピンから送られた
フランシスコ会の司祭や修道士であったことは注目すべき事項かと思われます。

この事件により、当時フィリピンには二千人近くの日本人がいましたが、かなりの人数を日本に送り返したことが記
録されているようです。

次回、徳川時代のマニラ郊外の日本人町 つづく 西島筆